昭和44年9月13日 朝の御理解 中村良一
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
金光様の、おー、ご信心は、どういう信心かと。えー、金光様では、どういう事を教えられるかと。ね。それは、色々教えて頂くのですけれども、あー、ま、煎じ詰めると、おー、どういう事かと言うと、人間の、おー、真実の幸せ、ね。本当の人間の幸せというものを、おー、天地の親神様が願うておられる。また、私共も願っておる。ところが、その、見当違いな、あー、考えで、見当違いな一生を終わっていく、難儀な氏子が沢山ある。ね。そこで、真実の幸せ。本当の幸せの道を説いてくださる。教えて下さるのだ。ね。人間は、勝手なものであると、どんなに、いー、知者であろうが、徳者で、どんなに身分の人であろうがです。ね。生まれてくる時には、日柄も何にも言わずに出てきておりながら、途中ばかり、日柄が良いの悪いのと言うてという事は、ね。どう、どうにかして幸せになりたい、というその幸せを乞い願うが、あー、ために、日柄は言うたり、えー、いわば、つまらん迷信にまで、えー、落ちてしまう。迷信、ね。それは幸せを願うあまりである。ね、そこで、人間の幸せとは、そういうものじゃない、そんなことじゃないぞと、真実の幸せとは、あの世にも繋がっていける幸せを持って、本当の幸せだというのである。ね。この世では、お金があり、ものがあり、健康であり、みんなからは、ちやほやされる。いかにも幸せで、一生送られたと言うても、その人が、果たして、あの世でも幸せかどうか。ね。また実際、それで、こんほんなら、そういう全ての事に恵まれておるようであっても、実際その人になってみると、幸せとは思っていなかったかも知れませんしね。本当は、あの世この世で、ね。たとえば、この世では、それこそ、月の差し込むようなあばら家に住んでおっても、ね。主と二人が、その、藁仕事でもさせていただきながらでも、そこに、もう、私共んごたる、ふう、私共夫婦のごたる、幸せなもんが、他にあるじゃろうかと。昨日も、ある方が参ってきて、それを言うんですよ。もう、本当に、私どんがごたる幸せなもんな、ない、あるじゃろかと思いますというけん。なら、金光様の信心するとね、あんた達だけじゃないよ、みんな、そげん言いよるよち言うた。ね。そういう、言えれるような幸せ。ね。頂いてこそね。初めて、その幸せが、あの世にももっていけれるんだと。信心による、ことに、ね。信心さして頂くようになって、合楽にご縁を頂いておったおかげでと、こう、その方が言われますようにです。ね。合楽にご縁を頂いておったおかげで、人間、真実の幸せの道を教えて頂くところにです。私共のような幸せなものがあろうかと思われ、また、それが言えれるようなおかげを受けて、信心が薄かったり、信心がなかったり、また、信心を間違えたり致しておりますとです、ね。えー、ここの六十六節にも言うてありますように、ね。日柄が良いの悪いのと言うてというような、窮屈な生活をしなければならない。ね。
昨日、一昨日、久富先生ところの、んー、二番目の息子の結婚式が、ここで、えー、行われました。大変良い結婚式でした。もうほんとに、勿体ないような、嫁さんを、今度頂く事が出来て、まあ、みんな、喜んでおるわけでございますけれども、丁度、二時からの式でございまして、丁度、涼しくはなりましたけれども、まだ暑い盛りで、部屋部屋は、みんな、ルームクーラーで冷やして、あの、冷えておりましたけれども、お広前は、やっぱ、熱いです。ですから、正装してきた人達が、みんな汗ブルブルで、さあ、はよう涼しいとこに入りなさいと言うて、えー、第一、花婿さんが、もう、偉いこう、汗ブルブルしとるごたる。じっと見たところが、冬物の、紋付袴を着けておりますもん。それで、すぐ私が、望さん、それじゃあ、どうもいかんけん。してからどうも、お主は、肥えとるからですね。借り物らしゅうこう、胸が、つかわれとらんとです、ようと。で、今日は、写真に写らんから、良いことはいいけれども、それじゃ暑かけん。私が、夏物があるから、私がつを着なさいと、と言うたら、横から、その、んー、お母さん達が言うんですよ。ほんに、先生、それがあの、先方のほうのご親戚からですね。どうしてもあの、冬物を着てくれと言われとりますち言う。なしやち、私が言うたところが、夏物ば着るとね、縁が薄なるちいうち言う。(笑いながら)もう、ほんとに私、そるきんあーた、みーんな、冬物ば着てきとっとですもん。で、それが、わざわざ、向こうの親戚から、それば言われてあったそうですたい。なるほど、向こうの親戚からも、続々と見えましたが、みんな冬物で見えてるんです。それが、縁が薄なるからぎな。あっはっはは、当たり前に、もう、ほんとに笑いも出来んようなお話ですけれども、それをですね、やはり、自分の娘の幸せを乞い願うために、それをする。はっは、夏物を着ると縁が薄なるち言う。そんならしやなかのち言うて、まあ、汗ブルブルで結婚式をしたようなわけでございましたけれどもね。けれども、本当にですね。笑い話のようですけれども、みんなが、そういう窮屈なね。しかも、それがね。幸せになりたい、幸せになりたいと思うから、そういう、笑い話のようなことを、平気で言うたり、したりした生活をしておる訳なんです。ね。そして、果たして幸せになるかならないか。それで、本当に縁が、あー、いわば、濃いくなるかならないか。それこそ、死ぬる時には日柄も何にも言わずに、夏物じゃろうが、薄ものじゃろうが、とにかく、経帷子(きょうかたびら)一枚で、走っていかなければならんじゃないかと。ね。ほんとにその、いかに、それこそ、知者じゃ、徳者じゃと言うて、威張っておってもです。もうほんとに、ただ幸せ、幸せと、幸せのことばかりを願って、本当なことの幸せの元になることをです。知らずにおる人が、どのくらいあるやら分からんのに、合楽にご縁を頂いておったということが、このような有難い事を分からせて頂いて、このような、有難い日々を過ごさせていただいて、私共のような、幸せなものは、他にはあるまいと思えれるような、幸せを頂いていくということ。
私は、今日、この六十六節を繰り返し読ませていただきながら、思わせていただくことは、あー、須田先生の、あの、去年でしたかね、お見えられますときに、パンフレットが出来ましたでしょう。須田先生をお迎えしてという。それは、丁度、見える四、五日前に、朝のご理解に頂いた、その御理解が、あの、パンフレットに収録してございます。あー、に、いー、その御理解が、載っておりましたですね。そのなかに、えー、御理解の中に、こんなのがありましたでしょう。色はにおえどちりぬるを、よたれそ常に、えー、たれぞつねならむ、ね。うぃの奥山きょうこへて、浅き夢見しえひもせず、ん、と言う、あのご理解なんですよね。これはあの、漢字で書かんと、これが分からんとですよね。色はにほへとちりぬるを、ね。若い時には、みんなが、それそれの、いうなら、色香も持っておりますけれども、この若さというようなものはね。必ず、散り果てるものだと。必ず、その色香というものは、失せてしまうものだと。ね。若さの幸せと、こう言うておるけれども、その、若さの幸せというものは、必ず、いうならば、色はあせ、枯れてしまうのだと。ね。それが、世のたえもの、恒であるということ。いわゆる、無常観ですよね。仏教で言う。うぃの奥山きょうこへて。幸せになりたい、幸せになりたいと、幸せだけを、まあ、若い時には、求めて、なるほど、その、自分の我力ででも、おー、幸せ、これが幸せと思うようなものを、いかにも掴んだようであるけれども、その幸せは束の間のもの。ね。初めて、うぃの奥山きょうこへて、いよいよ、あの世へ行かなければならない。高い山を越えた、今日はじめて分かった。いよいよ、もう、臨終だという時になって分かった。ね。本当に、浅き夢見し、えひもせすである。浅き夢、ね。えひとは、合わなかったということ。本当の幸せには、とうとう、めぐり合うことは出来なかったというのである。それは、その間、ね。その、若さとか、力とか、ね。例えば、によってですよ。幸せを求め続けてきたのに、それは、それこそ夢であった。ね。はあー、夢だ夢だということなのです。一生が。ね。(熊谷れんしょぼう?)が、ね。自分の子供を亡くして、ね。その子供が十六歳になりますがねえ。その子供を亡くしてから、そこに、無常、世の無常を悟った。そして、今まで、えー、侍としての、それを捨ててしまって、えー、頭を丸めてぼんさんになるわけです。ね。その時の、セリフですよ。「あー、夢だ夢だ。十六年は夢であった」というあたり。ね。これから、仏の道によって、と、言うのである。ね。だからね。私共の一生というのがです。ね。本当に、幸せ幸せという、幸せを乞い願いながら、あー、夢だ夢だ、夢であったと、走っていななければならない。いわゆる、浅き夢見しえひもせず。夢を追うておるようなものであった。浅い夢を見ておるようなものであった。とうとう、幸せには合いもすることが出来なかったと、うんとひと気張り、あの世に走って行かなければならぬ。最後にうんというのは、最後のひと気張りだと、こう言われておる。ね。これが、世の常だというのである。これが、普通の人の常だというのである。それは、どのような知者も徳者も、そうであると。そこに、金光大神ご出現という事になり、難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれという事になり、ね。その取次ぎを受けて、真の道を分からせてもらい、真の信心を分からせて貰うて、ね。真実の幸せとは、私共のような幸せなものがあろうかと、思わせていただけるような幸せが、しかも、これなら、あの世にも持って行けれる、あの世にも繋がることが出来るというような、素晴らしい幸せを獲得したときに、初めて、私は、人間が、真実幸せになった時だ。それを、私共は頂いていくのだという事になるのですよ。ね。そこで、私は思うですね。金光大神はそのようにです。例えば、真実の幸せの道を教えて下さったんだと。その、幸せな道というものを習うためには、どうしても、私共が素直にならなければいけない。ね。
先日の、十日のお月次祭に頂きました。ね。善導寺のあの久保山の、おー、子供達が、お祓いを受けるときに、はーっとこう、平身低頭、大人たちにまじって、お祓いを受けたお話がございましたですよね。お母さんを真ん中にして、あの、娘の米子ちゃんと、それから、あー、長男の純ちゃんと、が、親子三人、こう、平身低頭して、えー、お祓いを受ける、ね。いわゆる、信心とは、まず、なんと言うても、祓い清めていただくという事を教えていただくのだ。限りなく自分というものを、限りなく、美しゅうなって行くということ。ね。信心とは、本心の玉を研くものぞやというようにです。その事を教えて頂くのである。まず、清まることからだ。ね。同時にです、ね。どのようなお祓いを受けても、または、いわゆる、お取り祓いを受けても、それを、平身低頭して、いわば、合掌して、それを受けて行くという事なのだ。ね。やれ痛や、今みかげをよという心になれよと。災難にあったと言うてもです、お取り祓いを頂いて有難しというような心になれと、ね。だから、素直にならなければ出来ないです。これほど信心するのに、こんなことが起こってなんていう事になるのです。ね。お取り祓いを頂いて有難いと、そういう受け方。そういう生活態度というものがです。ね。それは、降ろうが照ろうが、その事を有難いと頂いていく、同時に、いよいよ、清まっていくという事の道をです。それも、誰でもが、それが出来るような、誰でもが、行じようと思えば行じられるような、やさしい説き方。優しい教え方をもって、金光大神は、私共に教えておってくださるのです。金光様の信心は、どういう事を教えるのか。煎じ詰めていやあ、人間が、真実、幸せになることのために、その道を教えて下さるのだ。真の道を、真の信心を教えて下さるのだ。その真の道とはどういうことか。真の信心とはどういうことかと。ね。その、真の信心とは、神様が、私共、人間氏子に、一人ひとりに求め給うところの、修行を合掌して受けていくことだ。いわゆる、成り行きを大切にして行くことだと。ね。そういう、生活態度の中からです。ね。ほんとうに、私共のような幸せなものがあろうかと思われるような幸せが、そこから、頂けてくるようになるのである。ね。私は後で、お月次祭の後に思うた。はー、先から、神様から頂いた、えー、純ちゃんと米子ちゃんが、あー、お祓いを受けるときに、平身低頭して、それこそ、意味が分かるような態度でね。子供のときから、これを覚えていきゃ間違いないと、まあ、思わせていただいたが、とにかくその事を思うんですね。純というのは、純真の純です。久保山純というんです。神様から二人ともいただいとる名前ですけれども、純という。ね。純粋の純である。米子というのは、米という字が書いてある。ね。お米というのは、よね。ね。お米は命の根とも言われておる。心とも言われておる。だから、ははー、米子ちゃんと純子ちゃんを持って教えてくださったことは、純粋な心という事であったなと思いました。ね。または、純と米というのは、そういう純な心、素直な心で受ける事がです。米、いわゆる、お互いが、氏子がままになるおかげの、本当にままになる、いわゆる、本当に幸せになれるという、そういう意味も含めてあるなとも思うた。ね。私共は、そこのところの理屈が、それは、分かってそうであればなおさらいいけど、分かっても分からんまでもです。ね。神様のお取り払いとして、ね。お祓いを日々受けておるとしてです。清めて頂いておるのだ。お取り祓いを頂いておるのだと。と、それを素直に合掌して受けられる生活こそです。私は、本当の幸せというのではなかろうかとこう思う。そういう、ね。たとえば、お取り祓いが、ね。例えば、泥棒が入っても、お取り払いを頂いて有難いと言うでしょう。ようにですね。信心しておるから、泥棒に入られないという事はないのですよ。ね。けれども、信心させていただいとる者は、お取り祓いとして頂けれるということが有難いのです。盗られましても、お取り払いを頂いて有難いというところに、幸せがあるでしょうが。はー、惜しかった、惜しかった、あんなものを盗られてと言うておるよりか、お取り祓いを頂いて有難い。そこにです、純な、素直な心がなからなければ、有難いと思えんのです。ね。なら、そういう受け方が、本当のままになる。いわゆる、本当の、いわゆる、真実の幸せに、とはそういうものなのだ。ね。幸せという字を、上から診ても幸せと読むなら、下からひっくり返してみても、幸せと読むのです。ようにね。幸せとは、それなのです。お取り払いを頂いて有難い言えれるような、私は、あー、純真な心、素直な心というものをです。私共が、いよいよ、本当な、素直な、純なものにしていかなければならない。そういう修行を、お道で言う信心修行だと。ね。降っても有難いなら、照っても有難いという幸せ。そういう幸せであって、いよいよ、あの世にも持って行けれる、あの世に極楽がまっておることが信じられる。この世でも極楽なら、また、あの世でも極楽であるおかげの受けられる、ね。真実の幸せとは、あの世にも繋がるものでなからなければ、真実の幸せとはいえない。お金があっても、物があっても、どんなに器量が良うても、あの世に繋がらないものであるならば、それは真実の幸せとは言えない。そういう大変なこと。そういう重大なことを、金光大神は、ね。淡々としてみやすう、私共に、教えておってくださる。この、六十六節とても、ね。ただ、んー、読み下しただけでは、そう大した深さは無いようでありますけれども、ね。いわゆる、色はにおえどちりぬるをという、この内容ですよね。そういうようないき方、そういうことで、一生を終わっていく人があまりにも多い。それが世の常であるようになった。それがもう、当たり前のようになっておる。そういう中にあってです。ね。そういう中にあって、間違いのない、この世での幸せを獲得させてもらいながら、それが、あの世にも繋がっていけれるような道をです。教えて頂いておるということが有難いという信心。
えー、昨日、先日から見えておった大阪の、おー、泉尾の教会の先生にテープを貸してあった。どういう事を、私がお話しておるテープやら、私は知らなかった。そのテープが、昨日、お供え物と一緒に送ってきておりました。送り返してきております。その前に、若先生宛に来ておるのが、あのテープを、早くお返ししなければならんのですけれども、次から次に回って、一つもう、センセーションを巻き起こすほどしのおかげを頂いておりますということが書いてあった。それで私は、どういうようなことを話しておっただろうかとも思うて、昨日、改めてまた、裏表、一時間半ぐらいかかりましょうか、それを聞かせて頂いて、なるほど、センセーションを巻き起こしただろうと思うような内容であった。私は、そのテープを、だから、大阪に貸したものですから、あー、印を入れておきなさいというておきましたから、あの、おいてございます。丁度、先生が見えたときの、前後しての、一つのご理解だったんですけれどもね。本当にその、こういう、大変なことが教えられておる。こういう大変なことが、このような見やすい説き方で教えられているということがです。やはり、一つのセンセーションを巻き起こすといったような原因になっておるのではなかろうかと、私は思うのです。ね。皆さんも、折があったら、一遍、もう、頂かれたんですよね。十何日前に頂かれたご理解ですけれど、もう一遍、ほんなら、大阪の方達が、泉尾の先生までがそれをお聞きになって、毎朝の、この御理解を、借ることは出来んだろうかと、森和子さんを通して言うてきておられます。ようにですね、そういう、例えば、私共がおかげを受けておる教えを、日々受けておるということが、有難いと思われるようなおかげを、お互いが受けなきゃいけません。ね。日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には何にも言わずに、日柄も何にも言わずに駆けっていぬると。日柄の良いの悪いのという事はです。いわゆる、見当違い、間違ったいき方、という意味なんです。日柄方位だけのことじゃありません。ね。夏のご祝儀に、冬物を着るという、その事だけじゃありません。ね。見当違いのいき方をしておる私達がです。ね。間違いのない、いき方をさせて頂くためには、いよいよ、純な心でね、素直な心で、日々、ね。清めていただくことと同時に、お取り祓いを頂いておるということの有難さというのが、分からして頂くような信心をね。いよいよ、身に付けていかなければならない。そこに真実の幸せがある。それは、あの世にまで、繋がっていく幸せである。そういうおかげを頂きたい。どうぞ。